戊辰戦争について
旧幕府軍は旧幕府勢力と奥羽越列藩同盟(東北北陸地方の31藩)で、新政府軍は薩摩、長州、土佐藩などが中心になっています。
戊辰とは十干・十二支を組み合わせて表した干支で、内戦が始まった年の干支が「戊辰」の年だったため戊辰戦争と名づけられました。
徳川将軍家と会津藩
会津藩の藩主、初代藩主保科正之(ほしなまさゆき)公は徳川家三代将軍徳川家光の異母弟です。
会津藩には、保科正之公が残した十五条の家訓(かきん)がありました。
第一条
大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処(お)るべからず。若(も)し二心を懐かば、即ちわが子孫に非ず、面々決して従うべからず。
(意味)
徳川将軍にひたむきに忠勤を尽くせ。他藩を真似て忠義をないがしろにしてはならない。もし裏切るようなことがあれば、その者はわが子孫ではないので、そんな藩主に家臣たちは従ってはならない。
それほどの言葉で、徳川将軍家への忠誠を守るよう言い伝えられたものでした。
この他にも、武備を怠らないよう、法を守るようにと細かい家訓が定められており、会津の藩主も藩士も皆この教えを守り続け、その心は幕末にあっても同じでした。
そして会津藩最後の藩主である松平容保(まつだいらかたもり)公も、その家訓通り、徳川将軍家への忠義を忘れず、幕府政治の中で活躍しました。
京都守護職
幕末、ペリー率いる黒船来航への対応などから武士たちの幕府への不信感は募っていました。
そんな中で、尊王攘夷(そんのうじょうい)(天皇に政権を返し外敵を打ち払うべきだ)の考えを掲げる過激な武士たちが京都へ集まってきており、治安の悪化が心配されていました。
元々あった幕府の機関ではこの情勢に対応しきれない、そう考えた幕府は、
文久2年(1862年)「京都守護職」を新設し、武芸に秀でた会津藩のその藩主、松平容保にその任を要請します。
京都守護職として攘夷派を取り締まれば、その裏で画策している長州藩などから恨みを買い対立するであろうことは明白でした。
松平容保は、京都が会津から遠く離れていること、会津藩の財政が厳しいこと、自らの体の具合が不調なことなどを理由に、断り続けます。
ですが保科正之公の残した家訓を用いて説得されました。
「徳川将軍のご命令とあらば、断ることはできぬはず」
「正之公ならばお受けしただろう」
そう諭された容保は、遂に要請を受け入れてしまいます。
そのことを伝えられた家老の西郷頼母(さいごうたのも)をはじめとした家臣たちは「薪を背負って火中に飛び込むようなものである」と進言し、容保を説得します。
しかし容保は家訓がある以上徳川家の命令に背いてはならぬと告げ、家臣たちも
「主とともに京都の土地を死に場所にしよう」と決意を固めたのでした。
京都守護職では、近藤勇率いる新撰組などを配下に加え、京都の治安維持にあたり、幕府と天皇のために忠義を尽くしました。
京都での新撰組の華々しい活躍とは裏腹に、彼らが攘夷派志士を摘発すればするほど、会津藩は攘夷派から恨みを買うことになります。

新撰組は不穏な動きを察知すると、「誠」の旗の元そろいの羽織姿で駆け付けました。
戊辰戦争のはじまり
徳川家第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)によって慶応3年(1867年)、大政奉還が行われます。
幕府の狙いは、朝廷に政権を返すことで一旦倒幕派の追撃から逃れ、そののちに政治に参加することでした。
政権を返しても強い力を持つ徳川家を脅威に感じた倒幕派と朝廷は、王政復古の大号令を発令し、新政府を樹立します。
これは天皇を中心とする政治が復活し、幕府は完全に廃止されたことを意味します。ここで京都守護職も廃止されました。
これに不満を抱いた旧幕府軍は、新政府軍との間で戦争を始めてしまいます。
最初の戦いは慶応4年(1868年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」です。
数では圧倒的に有利だった旧幕府軍でしたが、新政府軍の最新式の武器を前に苦戦を強いられます。
そして新政府軍が「錦の御旗」(天皇の旗)を掲げたのを見た旧幕府軍が、自分たちは逆賊(天皇に歯向かう勢力)とみなされたと思い戦意を削がれたこと、大阪城にいた徳川慶喜が松平容保ら家臣を引き連れ船で江戸に敗走したことから、旧幕府軍の敗北に終わります。
そしてとうとう江戸城が無血開城され、徳川慶喜は新政府側に従う意思を見せました。
次々と会津藩側に不利な状況が続いたのです。
こののち新政府軍がターゲットにしたのは、京都守護職としても活躍していた松平容保でした。
松平容保は、徳川慶喜に倣って新政府に従い降伏する意思を見せましたが、京都守護職での厳しい取り締まりで恨みを買っていたため、受け入れられませんでした。
新政府軍は仙台藩・庄内藩に会津藩討伐の命令を下します。
ですがどちらもそれを拒否、抵抗する構えを見せます。会津藩や北陸諸藩らと「奥羽列藩同盟」を締結させて新政府軍と戦う姿勢を見せたのです。
新政府軍の強硬な姿勢に、会津藩も徹底抗戦への決意を固めます。
ここから、戦いの舞台は徐々に会津へと迫っていくのでした。
>>会津での戦いへ
旧幕府軍は旧幕府勢力と奥羽越列藩同盟(東北北陸地方の31藩)で、新政府軍は薩摩、長州、土佐藩などが中心になっています。
戊辰とは十干・十二支を組み合わせて表した干支で、内戦が始まった年の干支が「戊辰」の年だったため戊辰戦争と名づけられました。
徳川将軍家と会津藩
会津藩の藩主、初代藩主保科正之(ほしなまさゆき)公は徳川家三代将軍家光の異母弟です。
会津藩には、保科正之公が残した十五条の家訓(かきん)がありました。
第一条
大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処(お)るべからず。若(も)し二心を懐かば、即ちわが子孫に非ず、面々決して従うべからず。
(意味)
徳川将軍にひたむきに忠勤を尽くせ。他藩を真似て忠義をないがしろにしてはならない。もし裏切るようなことがあれば、その者はわが子孫ではないので、そんな藩主に家臣たちは従ってはならない。
それほどの言葉で、徳川将軍家への忠誠を守るよう言い伝えられたものでした。
この他にも、武備を怠らないよう、法を守るようにと細かい家訓が定められており、会津の藩主も藩士も皆この教えを守り続け、その心は幕末にあっても同じでした。
そして会津藩最後の藩主である松平容保(まつだいらかたもり)公も、その家訓通り、徳川将軍家への忠義を忘れず、幕府政治の中で活躍しました。
京都守護職
幕末、ペリー率いる黒船来航への対応などから武士たちの幕府への不信感は募っていました。
そんな中で、尊王攘夷(そんのうじょうい)(天皇に政権を返し外敵を打ち払うべきだ)の考えを掲げる過激な武士たちが京都へ集まってきており、治安の悪化が心配されていました。
元々あった幕府の機関ではこの情勢に対応しきれない、そう考えた幕府は、文久2年(1862年)「京都守護職」を新設し、武芸に秀でた会津藩のその藩主、松平容保にその任を要請します。
京都守護職として攘夷派を取り締まれば、その裏で画策している長州藩などから恨みを買い対立するであろうことは明白でした。
松平容保は、京都が会津から遠く離れていること、会津藩の財政が厳しいこと、自らの体の具合が不調なことなどを理由に、断り続けます。
ですが保科正之公の残した家訓を用いて説得されました。
「徳川将軍のご命令とあらば、断ることはできぬはず」
「正之公ならばお受けしただろう」
そう諭された容保は、遂に要請を受け入れてしまいます。
そのことを伝えられた家老の西郷頼母(さいごうたのも)をはじめとした家臣たちは「薪を背負って火中に飛び込むようなものである」と進言し、容保を説得します。
しかし容保は家訓がある以上徳川家の命令に背いてはならぬと告げ、家臣たちも「主とともに京都の土地を死に場所にしよう」と決意を固めたのでした。
京都守護職では、近藤勇率いる新選組などを配下に加え、京都の治安維持にあたり、幕府と天皇のために忠義を尽くしました。
京都での新選組の華々しい活躍とは裏腹に、彼らが攘夷派志士を摘発すればするほど、会津藩は攘夷派から恨みを買うことになります。

新撰組は不穏な動きを察知すると、「誠」の旗の元そろいの羽織姿で駆け付けました。
戊辰戦争のはじまり
徳川家第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)によって慶応3年(1867年)、大政奉還が行われます。
幕府側の狙いは、朝廷に政権を返すことで一旦倒幕派の追撃から逃れ、そののちに政治へ参加することでした。
政権を返しても強い力を持つ徳川家を脅威に感じた倒幕派と朝廷は、王政復古の大号令を発令し、新政府を樹立します。
これは天皇を中心とする政治が復活し、幕府は完全に廃止されたことを意味します。ここで京都守護職も廃止されました。
これに不満を抱いた旧幕府軍は、新政府軍との間で戦争を始めてしまいます。
最初の戦いは1868年1月の「鳥羽・伏見の戦い」です。
数では圧倒的に有利だった旧幕府軍でしたが、新政府軍の最新式の武器を前に苦戦を強いられます。
そして新政府軍が「錦の御旗」(天皇の旗)を掲げたのを見た旧幕府軍が、自分たちは逆賊(天皇に歯向かう勢力)とみなされたと思い戦意を削がれたこと、大阪城にいた徳川慶喜が松平容保ら家臣を引き連れ船で江戸に敗走したことから、旧幕府軍の敗北に終わります。
そしてとうとう江戸城が無血開城され、徳川慶喜は新政府側に従う意思を見せました。
次々と会津藩側に不利な状況が続いたのです。
こののち新政府軍がターゲットにしたのは、京都守護職としても活躍していた松平容保でした。
松平容保は、徳川慶喜に倣って新政府に従い降伏する意思を見せましたが、京都守護職での厳しい取り締まりで恨みを買っていたため、受け入れられませんでした。
新政府軍は仙台藩・庄内藩に会津藩討伐の命令を下します。
ですがどちらもそれを拒否、抵抗する構えを見せます。会津藩や北陸諸藩らと「奥羽列藩同盟」を締結させて新政府軍と戦う姿勢を見せたのです。
新政府軍の強硬な姿勢に、会津藩も徹底抗戦への決意を固めます。
ここから、戦いの舞台は徐々に会津へと迫っていくのでした。