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会津若松市の観光・白虎隊|飯盛山(いいもりやま)

会津若松市の観光地

会津若松市の観光・白虎隊|飯盛山(いいもりやま)

会津若松市の観光地

会津での戦い

 
会津藩の軍制改革

戦いが間近に迫った会津藩は、軍制改革を行います。
軍の体制をフランス式へと変化させ、西洋式の鉄砲を購入し軍備を増強しました。
そして年齢別に分けた四つの部隊を編成します。
50歳以上の玄武隊、36~49歳の青龍隊、18~35歳の朱雀隊、16~17歳の白虎隊です。
部隊名の由来は、中国の神話で天の方位の神々とされる四神の東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武です。
四つの部隊のうち主力部隊は18~35歳の朱雀隊で、白虎隊・玄武隊は予備軍の扱いとされ、主に城下の警護を行っていました。
しかし、戊辰戦争が始まり戦場が会津に移ることで、白虎隊は激しい戦火の中に身を投じることとなるのでした。

 
飯盛山にある白虎隊士の像です。
 
会津戦争

北上を続ける新政府軍に対抗するため、会津藩は敵が進軍してくるであろうルートに兵を送ります。そして会津藩に協力しようと旧幕府側の軍勢が集結しましたが、新政府軍の武器の性能には敵わず、撤退が相次ぎました。
そして徐々に新政府軍は会津方面へと侵攻していきます。
慶応4年(1868年)8月22日、会津藩の藩境である猪苗代町の母成峠(ぼなりとうげ)が突破されました。
母成峠から猪苗代湖、そして会津盆地へと向かう山裾に戸ノ口原(とのくちはら)という高台があります。そこを突破されたら敵が会津へとなだれこんできます。会津藩にとって、戸ノ口原こそが最後の砦でした。

 

戸ノ口原古戦場跡には、亡くなった戦士たちを弔うお墓が建てられました。

そして苦戦が続く戦況の中、松平容保は飯盛山の滝沢本陣にて、自らを警護していた白虎隊に出撃命令を下します。
白虎隊は戸ノ口原へと出撃、新政府軍と戦闘を繰り広げました。
多くの負傷者を出した白虎隊は、飯盛山へと引き返していきました。何とか飯盛山へと逃げ延びるのですが、そこから見えたのは、炎に包まれた会津若松城(鶴ヶ城)と城下町の光景でした。
「敵に捕まり辱めを受けるわけにはいくまい」
「武士の本分を明かすために…」
そうして死を選んだ少年たちは集団自決をし、20名のうち19名が死亡しました。
この時急所を外れて生き残った飯沼貞吉(いいぬまさだきち)は、後の世に白虎隊の悲劇を伝えたのでした。

 
飯盛山から見えたのは、生まれ育った町が侵略されている光景でした。
 
籠城戦(ろうじょうせん)

8月23日、新政府軍はとうとう会津盆地へと侵入してきました。
城下町には火がつけられ、町中で戦闘が始まってしまいます。
町民は逃げまどい、残っていた藩士の家族などは城へ避難しました。

そして松平容保は籠城戦に持ち込むことを決断。
籠城戦の知らせを受けると、各地を守っていた藩士たちも続々と城へ戻ってきました。
そして約1カ月間、籠城戦が行われました。
会津若松城を包囲した新政府軍によって、城内に50問の砲が50発ずつの砲弾を打ち込まれ城は穴だらけに、爆発に巻き込まれた人々の死体で凄惨な状態だったといわれています。
この戦いでは、城に残っていた白虎隊士の少年たちのほかに、「八重の桜」でおなじみの山本八重(やまもとやえ)(後の新島八重)のように、女性達も勇敢に戦いました。
着弾した砲弾を濡らした布団で包み、消火する。一瞬でも遅れれば爆発に巻き込まれるような危険な作業を、女子供たちが率先して行いました。

籠城すること1ヶ月、劣勢だと判断した同盟関係の主力藩も続々と降伏し、会津藩は孤立します。
弾薬や食料も底を尽きかけ、とうとう会津藩も降伏しました。

9月22日に新政府軍との協議が成立、籠城は終わりを告げました。

戊辰戦争で亡くなった会津藩士は約3000人。
この時、西郷頼母の屋敷では、足手まといになるくらいならと頼母の妻や子ども、親戚が自害しました。同じように自害していった武家屋敷の婦女子は233人にものぼったといわれています。
新政府軍の戦力3万に対し、会津藩・同盟軍は5000だったといわれています。

 
現在あるお城は、昭和40(1965)年に再建されたものです。

会津の人たちは、今まで幕府のために忠義を尽くしてきた自分たちに着せられた汚名を返上するため、圧倒的に不利な状況に追い込まれても命を懸けて戦い続けました。
会津の人は頑固者だと評されることがありますが、
その頑固さの裏には、先祖から受け継がれた正義と誇りを大事に思う心があるのです。
飯盛山をはじめ会津には、今も語り継がれる会津魂を持った武人たちの心に触れられる史跡がたくさんあります。
ぜひ、当時の歴史に思いを馳せながら会津の地を巡ってみてください。


 

<<戊辰戦争について

会津藩の軍制改革

戦いが間近に迫った会津藩は、軍制改革を行います。
軍の体制をフランス式へと変化させ、西洋式の鉄砲を購入し軍備を増強しました。
そして年齢別に分けた四つの部隊を編成します。
50歳以上の玄武隊、36~49歳の青龍隊、18~35歳の朱雀隊、16~17歳の白虎隊です。
部隊名の由来は、中国の神話で天の方位の神々とされる四神の東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武です。
四つの部隊のうち主力部隊は18~35歳の朱雀隊で、白虎隊・玄武隊は予備軍の扱いとされ、主に城下の警護を行っていました。
しかし、戊辰戦争が始まり戦場が会津に移ることで、白虎隊は激しい戦火の中に身を投じることとなるのでした。


飯盛山にある白虎隊士の像です。
 
会津戦争

北上を続ける新政府軍に対抗するため、会津藩は敵が進軍してくるであろうルートに兵を送ります。そして会津藩に協力しようと旧幕府側の軍勢が集結しましたが、新政府軍の武器の性能には敵わず、撤退が相次ぎました。
そして徐々に新政府軍は会津方面へと侵攻していきます。
慶応4年(1868年)8月22日、会津藩の藩境である猪苗代町の母成峠(ぼなりとうげ)が突破されました。
母成峠から猪苗代湖、そして会津盆地へと向かう山裾に戸ノ口原(とのくちはら)という高台があります。そこを突破されたら敵が会津へとなだれこんできます。会津藩にとって、戸ノ口原こそが最後の砦でした。


戸ノ口原古戦場跡には、亡くなった戦士たちを弔うお墓が建てられました。

そして苦戦が続く戦況の中、松平容保は飯盛山の滝沢本陣にて、自らを警護していた白虎隊に出撃命令を下します。
白虎隊は戸ノ口原へと出撃、新政府軍と戦闘を繰り広げました。
多くの負傷者を出した白虎隊は、飯盛山へと引き返していきました。何とか飯盛山へと逃げ延びるのですが、そこから見えたのは、炎に包まれた会津若松城(鶴ヶ城)と城下町の光景でした。
「敵に捕まり辱めを受けるわけにはいくまい」
「武士の本分を明かすために…」
そうして死を選んだ少年たちは集団自決をし、20名のうち19名が死亡しました。
この時急所を外れて生き残った飯沼貞吉(いいぬまさだきち)は、後の世に白虎隊の悲劇を伝えたのでした。


飯盛山から見えたのは、生まれ育った町が侵略されている光景でした。
 
籠城戦(ろうじょうせん)

8月23日、新政府軍はとうとう会津盆地へと侵入してきました。
城下町には火がつけられ、町中で戦闘が始まってしまいます。
町民は逃げまどい、残っていた藩士の家族などは城へ避難しました。

そして松平容保は籠城戦に持ち込むことを決断。
籠城戦の知らせを受けると、各地で守っていた藩士たちも続々と城へ戻ってきました。
そして約1カ月間、籠城戦が行われました。
会津若松城を包囲した新政府軍によって、城内に50問の砲が50発ずつの砲弾を打ち込まれ城は穴だらけに、爆発に巻き込まれた人々の死体で凄惨な状態だったといわれています。
この戦いでは、城に残っていた白虎隊士の少年たちのほかに、「八重の桜」でおなじみの山本八重(やまもとやえ)(後の新島八重)のように、女性達も勇敢に戦いました。
着弾した砲弾を濡らした布団で包み、消火する。一瞬でも遅れれば爆発に巻き込まれるような危険な作業を、女子供たちが率先して行いました。

籠城すること1ヶ月、劣勢だと判断した同盟関係の主力藩も続々と降伏し、会津藩は孤立します。
弾薬や食料も底を尽きかけ、とうとう会津藩も降伏しました。

9月22日に新政府軍との協議が成立、籠城は終わりを告げました。

戊辰戦争で亡くなった会津藩士は約3000人。
この時、西郷頼母の屋敷では、足手まといになるくらいならと頼母の妻や子ども、親戚が自害しました。同じように自害していった武家屋敷の婦女子は233人にものぼりました。
新政府軍の戦力3万に対し、会津藩・同盟軍は5000だったといわれています。



現在あるお城は昭和40(1965)年に再建されたものです。
 
会津の人たちは、今まで幕府のために忠義を尽くしてきた自分たちに着せられた汚名を返上するため、圧倒的に不利な状況に追い込まれても命を懸けて戦い続けました。
会津の人は頑固者だと評されることがありますが、
その頑固さの裏には、先祖から受け継がれた正義と誇りを大事に思う心があるのです。
飯盛山をはじめ会津には、今も語り継がれる会津魂を持った武人たちの心に触れられる史跡がたくさんあります。
ぜひ、当時の歴史に思いを馳せながら会津の地を巡ってみてください。


 

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