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会津若松の祖、キリシタン大名の眠る墓所

漆黒の燕尾形兜の武将|蒲生氏郷の墓(がもううじさとのはか)

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  • 漆黒の燕尾形兜の武将|蒲生氏郷の墓(がもううじさとのはか)

    漆黒の燕尾形兜の武将|蒲生氏郷の墓(がもううじさとのはか)

    ガモウウジサトノハカ

  • 〒965-0871 福島県会津若松市栄町2-12

    TEL:0242-22-2993

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会津若松の新しい町づくりを行い、酒・漆器などの殖産政策を行った氏郷は、キリシタン大名としても知られ、茶の道でも利休七哲の一人にあげられています。
文禄の役の翌文禄2年、陣中で吐血し、静養のために会津に一旦帰りますが、文禄3年、正月に伏見城完成祝いのために上洛。4月には、秀吉が返礼として、完成したばかりの蒲生伏見屋敷を訪問。秀吉は、病状が再発し悪化する氏郷の様子を心配し、利家に対して、氏郷を当時の名医である、曲直瀬道三に診せるように命じましたが、文禄4年、伏見の蒲生屋敷で40歳の若さで死去しました。

墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑があります。
瑞雲山興徳寺は、臨済宗妙心寺派の寺で、公安10年に創建されました。
郭内にあった唯一の寺でしたが、戊申の兵火に罹り、伽藍(がらん)は、昔日の面影はありません。

豊臣秀吉が、天正18年に奥羽仕置の太閤検地の際に、会津へきたとき三泊したほどの大寺院で、秀吉来郡北限の地でもあります。

現在の建造物は、明治政府の命により、天守閣をはじめ、鶴ヶ城内の建造物を取り壊しされた時の鶴ヶ城解体余材にて、明治10年に、建立されたものです。
鎌倉時代の頃から、興徳寺には、身体の悪いところと同じ部分を摩ると、痛みを和らげてくれるというありがたいご利益の地蔵尊がありました。

身体や心の痛みの治療に願をかける参拝者が「おさすり地蔵」と称して長きにわたり厚く信仰されてきました。
地蔵尊のありがたいご利益にあやかろうと、遠方からたくさんの参拝者が訪れ、おさすり地蔵は絶えず摩られ、最後には姿形がなくなったと言われています。

現在の地蔵尊は2代目で、2013年に再建されました。
TEL:0242-22-2993

INFOインフォメーション

  • 漆黒の燕尾形兜の武将|蒲生氏郷の墓(がもううじさとのはか)
  • ■名称

    漆黒の燕尾形兜の武将|蒲生氏郷の墓(がもううじさとのはか)
  • ■フリガナ

    ガモウウジサトノハカ
  • ■住所

    〒965-0871 福島県会津若松市栄町2-12
  • ■TEL

    0242-22-2993
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