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会津若松の祖、キリシタン大名の眠る墓所

漆黒の燕尾形兜の武将|蒲生氏郷の墓(がもううじさとのはか)

天正18年(1590)天下統一を果たした秀吉が、信長にも仕えた戦国武将の蒲生氏郷に、奥羽の押さえとして、会津42万石の領土(後に91万石に増加)を与え、奥州の伊達政宗をけん制する、大きな要としての役割を命じました。

氏郷は、当時、黒川と呼ばれていたこの町を「若松」と名付け、鶴ヶ城や城下町を整備しました。
また、故郷の近江国やかつて治めた伊勢国松阪から、漆器産業の技術者を招いたり、楽市楽座を採用したりと、会津の今に至る文化興隆にも、力を注ぎました。
しかし、会津の領主になった5年後に、文武両道に秀でた氏郷は、病のために京都で不帰の人となりました。

今でも、地元の人に愛されている、蒲生氏郷公の墓が、会津若松市神明通りの東裏、興徳寺の本堂東側にあります。
京都大徳寺の本墓から、分骨したものと伝えられ、墓は、空風火水地の五文字を刻した風格ある五輪塔です。

 
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INFOインフォメーション

名称 漆黒の燕尾形兜の武将|蒲生氏郷の墓(がもううじさとのはか)
(ガモウウジサトノハカ)
電話 0242-22-2993
住所 〒965-0871 福島県会津若松市栄町2-12 アクセス
備考 参詣自由
会津若松の新しい町づくりを行い、酒・漆器などの殖産政策を行った氏郷は、キリシタン大名としても知られ、茶の道でも利休七哲の一人にあげられています。
文禄の役の翌文禄2年、陣中で吐血し、静養のために会津に一旦帰りますが、文禄3年、正月に伏見城完成祝いのために上洛。4月には、秀吉が返礼として、完成したばかりの蒲生伏見屋敷を訪問。秀吉は、病状が再発し悪化する氏郷の様子を心配し、利家に対して、氏郷を当時の名医である、曲直瀬道三に診せるように命じましたが、文禄4年、伏見の蒲生屋敷で40歳の若さで死去しました。

墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑があります。
瑞雲山興徳寺は、臨済宗妙心寺派の寺で、公安10年に創建されました。
郭内にあった唯一の寺でしたが、戊申の兵火に罹り、伽藍(がらん)は、昔日の面影はありません。

豊臣秀吉が、天正18年に奥羽仕置の太閤検地の際に、会津へきたとき三泊したほどの大寺院で、秀吉来郡北限の地でもあります。

現在の建造物は、明治政府の命により、天守閣をはじめ、鶴ヶ城内の建造物を取り壊しされた時の鶴ヶ城解体余材にて、明治10年に、建立されたものです。
鎌倉時代の頃から、興徳寺には、身体の悪いところと同じ部分を摩ると、痛みを和らげてくれるというありがたいご利益の地蔵尊がありました。

身体や心の痛みの治療に願をかける参拝者が「おさすり地蔵」と称して長きにわたり厚く信仰されてきました。
地蔵尊のありがたいご利益にあやかろうと、遠方からたくさんの参拝者が訪れ、おさすり地蔵は絶えず摩られ、最後には姿形がなくなったと言われています。

現在の地蔵尊は2代目で、2013年に再建されました。
TEL:0242-22-2993

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