鶴ヶ城 1868年(慶応4年)戊辰戦争の際には、1ヶ月もの間の籠城戦に持ちこたえ、板垣退助勢に薩摩の援軍を助けを借りても城は遂に落ちることはなく耐え抜いた難攻不落の名城です。 鶴ヶ城の天守閣は歴史博物館になっており、公園内には戊辰戦争の痕跡が今も史跡として残っています。 ■鶴ヶ城の詳細情報はこちら
飯盛山 戊辰戦争のおり、16~17歳の少年によって編成させた白虎隊が眠る飯盛山。秋の冷たい水の中、戸ノ口堰洞穴を通りやっとの思いで辿り着いた場所です。飯盛山には、白虎隊十九士の墓をはじめ、戸ノ口堰洞穴など白虎隊士にまつわる史跡が数多くあります。また、国重要文化財のさざえ堂が有名です。 ■飯盛山の詳細情報はこちら
国指定名勝 会津松平氏庭園 御薬園 会津の歴代藩主が愛した回遊式庭園。戊辰の会津戦争では、新政府軍の療養所として使用されました。そのため、御薬園内にある御茶屋御殿と寿楽亭は戦火を免れました。当時の刀傷が今でも建物に残されています。また、会津藩主松平容保公の子孫である秩父宮勢津子妃殿下ゆかりの重陽閣も、移設されています。 ■御薬園の詳細情報はこちら
戸ノ口原古戦場跡 戊辰の戦いで、十六橋を進んできた西軍と会津藩軍は戸ノ口原で激突します。兵力に優る西軍に対し、会津藩士は多くの戦死者が出るし厳しい戦況。これが後に白虎隊の悲劇を生みます。戊辰戦争後、埋葬することを許されなかった戦士の遺体を近隣の集落の人々が手厚く葬り、戦士六人墓と戦士十六人墓を建てました。 ■戸ノ口原古戦場跡の詳細情報は強清水湧水へ
武家屋敷 会津藩23万石、松平家譜代家臣で代々家老職を務めた西郷頼母の、敷地面積2400坪の壮大な家老屋敷が復元されています。西郷頼母は、藩主容保公の京都守護職拝命のおり、「薪を負うて火を救うにひとし」と反対し家老の職を解かれます。しかし戊申の会津戦争には復職し白河口総督として奮起しました。 ■会津武家屋敷の詳細情報はこちら
近藤勇墓所 東山の麓にある天寧寺。その山間の墓地に、新選組近藤勇の墓があります。土方歳三が藩に請願して建立したもので、京都三条河原から奪い返してきた近藤の首、遺髪が埋まっていると伝えられています。 土方が唯一参ることが出来た近藤勇のお墓の隣には、戊辰戦争終結後に建てられた土方歳三の墓が並んでいます。 ■近藤勇墓所の詳細情報は会津東山温泉へ
斎藤一(藤田五郎)墓所 戊辰で戦死した会津藩士の遺骸を埋葬する事が阿弥陀寺と長命寺に限り、許されていました。七日町のある阿弥陀寺には、新鮮組副長助勤で三番隊組長の斎藤一の墓所があります。土方歳三が庄内へ向かうおり、斎藤は会津に残り会津藩士と共に戦いました。墓は、大正4年東京で亡くなった後、こちらに建てられました。 ■斎藤一墓所の詳細情報は七日町通りへ
福島県立博物館 会津鶴ヶ城公園の東側にある、福島県立博物館。福島県の古代から現代までの歴史、民族、自然の資料を展示しています。 貴重な資料を基に、企画展、テーマ展、ポイント展等で会津の歴史を、幅広く知ることが出来ます。 ■福島県立博物館の詳細情報はこちら
日新館天文台跡 日新館の天文台跡は現存する日本最古の天文台跡です。藩祖、保科正之が暦作りを命じたことが始まりとされ、日新館では選択制の中に天文学を学ぶ授業があり、基底約22m、台上方10m、高さ6.5mのこの天文台は、天体観察場として生徒に利用されていました。